犬1-1




次の日、練習が終わった後、自主練せずに帰ろうとする俺を宮城が引き止めた。
「あれ?三井サン、もう帰るんすか?」
他意はないだろう。勿論。
だがあの犬にやましい名前をつけてしまったせいで、宮城の顔を直視できない。
「あー……おう……まぁな……」
背を向けたままこれまでにないほど歯切れの悪い、返事と言えるのかも分からないような声を出して、
この場所から遠ざかろうとする。
今日は動物病院に、連れて行かなきゃならないのだ。
野良っつうか、捨て犬だったヨウヘイに、予防注射を打ってもらわないと。
「何か用事っすか」
「あぁ、ちょっと、病院に」
宮城の声のトーンが一気に低くなった。
「え、」
あぁ、やっぱり……答え方を間違えた。
今俺は家に一匹でいるヨウヘイが心配で、ヨウヘイのことしか考えられないんだって。
だからイヤだったんだ、誰とも喋らず誰にも気付かれずに帰りたかったんだ。
犬飼ってるなんて言ったら、どんな犬だ、とか、名前は、とか、訊かれるに決まってる。
名前、名前だよ。
……どーしよう。
「病院って」
どこか悪いのかと訊かれる前に首を振った。
「悪くねー」
「じゃあ」
心配して腕を掴んできたのを振り払うわけにもいかず、溜め息をついて、
「……動物病院に、犬連れてくから」
誰かの見舞いだとか答えればいいのに、本当のことを喋ってしまった。
宮城は手を離し、きょとんとして苦い顔の俺を見上げている。
に、逃げるか、今のうちに。
気付かれないように少しずつ後ずさりすると、宮城の目が輝き出した。
「何犬!?」
「は?」
つい聞き返して足を止めてしまった俺に、少年の目をした後輩が詰め寄ってくる。
「俺、犬、好きなんだよね!どんな犬?」
お前が犬ズキかどうかなんて聞いてねぇ!
……と、つっこめないほど宮城の笑顔がまぶしい。
そうなんだ、そんなに犬が好きだったのか、と相づちを打つしかなかった。
どうしよう、話が広がってしまうぞ、これは。
いや、でも、犬好き相手なら予防注射が必要だって知ってるだろうし、うまくすれば切り抜けられるかもしれない。
微妙に焦りつつそんな希望を持って、とりあえずどんな犬か答えてみた。
「えーと、真っ黒の、雑種。まだ子犬」
とっても愛想のねぇ子犬だ。
「いつから飼ってんの、病院って、そのコどっか悪いの?」
宮城が無邪気に言った言葉に、俺はガコンガコンひっかかった。
そのコって。
ヨウヘイをそのコ呼ばわりしちまったよ。
教えられないけど、名前知ったら叫び出しそうだな、コイツ。
「……悪いんじゃなくて、予防注射。昨日オヤジが拾ってきたんだよ」
引き気味なのを悟られないように目を逸らした。
普通引くよな、ヨウヘイだからじゃなくても、そのコ、って……。
犬好きには普通なのか?
確かに近所のおばちゃんたちはうちのコがどうのとか言うけど、男子高校生だぞ。
「あぁ、そうなんだ。じゃあ早く行かなきゃね」
考えが脱線しているのに気付かず、つい眉をひそめていた俺に、都合のいいセリフが聞こえてきた。
これで帰れる、やっと帰れる。
名前の話をしなくて済んだ。
「そうなんだよ、だからじゃあな!」
よし、これ以上何か言われる前に帰ろう。
安心して回れ右した俺の背中に宮城の声がかかった。
「今度写真撮ってきてよ!絶対!」
写真見せたら、名前訊かれるし。
訊かれても答えられるわけねぇし。
……聞かなかったことにして逃げ帰ろう。


「ただいまぁ」
家に着いて扉を開けると、ゆっくりした足取りのヨウヘイが廊下を歩いてきていた。
子犬のくせにおやじくせぇ……。
ワンとも言わず、ただ俺の顔を見上げている。
何考えてんだろう、一体?
普通主人が帰ってきたらもっとしっぽ振ったりとか、喜ぶもんなんじゃねぇのかよ?
玄関にカバンを置いて、財布だけポケットにつっこんで、ヨウヘイを抱き上げた。
「……散歩な、散歩」
ヨウヘイは少し鼻を動かして溜め息をつき、俺に抱かれたまま落ち着いてしまった。
マジで子犬とは思えねぇ落ち着きようだ。
病院な、って言ったら嫌がって暴れたかな?
って、まだ知らないか、病院。
「ヨウヘイ?」
カギを閉め、抱いたままの子犬を見ながら名前を呼んでみると、耳だけで返事をされた。
落ち着いてるんじゃなくて元気がないのか?
既に病気だったりして。
昨日、風呂に入れたのがマズかったとか。
そういえば昨日よりちょっと身体が暖かいような気がするけど、犬も風邪引くのか?
「……」
すっげー心配になってきた。
今の時間混んでそうだし、早く行って順番取らねーと。
おばちゃんの群れに出会うのが嫌だとか思ってる場合じゃねぇな。
いきなり早足になった俺に驚いて、ヨウヘイが少し顔を上げた。


三十分ほど待って診てもらったら、熱があるんじゃないかってのははただの気のせいだった。
安心したけど、じゃあなんで子犬のくせにこんなに落ち着いてやがるんだ?
実は子犬じゃなくて、このサイズでもう大人、なんてこと……あるかなぁ?
俺にはわからないから、獣医に訊いてみると、
「いや、子犬ですよ。落ち着いてるのは性格ですね。賢いワンちゃんじゃないですか」
とか言って褒められた。
すっげー、むかつく。
獣医の兄ちゃんじゃねぇ、この賢いワンちゃんがだ。
注射してもちっとも暴れないヨウヘイを恨めしく睨みつけ、心の中でぶつぶつとひとりやさぐれる。
子犬のくせに何我慢してんだよ。
ちっとは暴れて噛み付いてみろってんだ。
……水戸もきっと予防注射の時一人だけケロッとしてるタイプだよなぁ。
それに、ガキのくせに大人っぽくて落ち着いてて、何考えてるのかわかんねぇんだ。
くそ、名前が同じだからって、中身まで似てることねーじゃねーか。
他の犬がギャンギャン吠える待合室でもヨウヘイは全然吠えないで俺の隣に座っていた。
金を払う時も大人しく俺に付いてきて、帰り道は行きと同じで俺の腕の中でじっとしていた。
賢いけど気持ち悪い。
なんでこうもワガママしねーんだ、こいつらは。
水戸はともかく、こいつは俺のペットなんだから、もっとワガママ言っていいのに。

家に向かってとぼとぼと歩いていると、前から親子連れが来るのが見えた。
手を繋いだ母親と子供。
俺には縁のなかった光景だ。
「……ワン!」
大人しかったヨウヘイが、突然吠えた。
「クロ!」
子供が叫んでこっちへ走ってくる。
何が起こっているのか、しばらく理解できなかったが、ヨウヘイが俺の手から抜け出したがっているのだけはわかった。
俺とヨウヘイもといクロと親子連れは、交差点のど真ん中で一緒になった。
ここから左へ曲がれば、俺の家はすぐだ。
ヨウヘイを抱いたまま曲がってしまいたかったけど、それはできなかった。
こいつはやっぱり俺のとこには来てくれないんだ。
人間も犬も、一緒だ。
すっかり冷めた気分でクロを下ろしてやると、クロはシッポをぱたぱた振って子供にじゃれついた。
俺への態度とえらい違いだな?
「……お前の犬かよ、これ」
平静を装って言ったつもりなのに、俺の声はすごく低かった。
おかげで子供が怯えている。
「え、えぇ、あの、拾ってくださってありがとうございます……」
しゃがみ込んでクロを抱いている子供の代わりに母親がそう応えた。
母親も少し怯えているように見える。
やっぱ俺、人相悪いのかな。
「この子、ちょっと目を離した隙にいなくなってしまって……ずっと探してたんです」
こいつが?
信じられねぇ。
他の犬じゃねぇのか。
クロは嬉しそうに子供の顔を舐めている。
無駄にあがくのが面倒くさくなってきた。
もうヨウヘイはいねぇんだって、諦めろ。
無表情でじっと犬を見つめている俺の顔を、怪訝そうに母親が覗き込んでくる。
病院で書かされた書類とか、渡さなきゃいけねーかな。
俺は考えるのを放棄して、ポケットにつっこんでいた紙を取り出した。
「これ、注射したって証明とか……よくわかんねぇけど、俺が持っててもしょうがねぇから」
紙を母親に押し付けて、さっさと一人で帰ろうと、左の道へ視線を移した。
ヨウヘイいなくなったら、オヤジショック受けるだろうな。
でもオヤジのせいじゃねぇ?
捨て犬だっつうから、俺も飼う気になったのに……普通に飼われてるんじゃねぇかよ。
そりゃ首輪してねぇしわかんねぇだろうけど、ハコに入ってたとかじゃなかったなら、もっと確かめるとかしろっての……。
「三井さん?」
溜め息をついて歩き出そうとした瞬間、呼び止められた。
母親の声じゃない。
女の声ですらなかった。
子供のでもない。
そっち見るなって言ってるのが頭の中に響いていたけど、俺は聞こえないフリをした。
「何脅してんの?」
上着のポケットに手をつっこんでからかうように笑う人間の姿が街灯に照らされている。
なんでこんなとこで止まっちまったんだろう。
交差点なんて、一番明るいところじゃねーか。
今コイツの顔、見たくねぇ。
いや、ウソだ、見たかった。
そこにいるのが誰なのか、呼ばれた時からわかってたんだから、見たくないなら、無視すればよかったんだ。
無視しろって声に、従わなかったのは俺だ。
反応したのに今更無視できるわけもなく、俺はその場に立ち尽くした。
近付いてきた水戸がおろおろしている母親に会釈する。
母親も書類を胸に持ったまま、ぎこちなくそれを返した。
「あ、犬?」
言いながら、元ヨウヘイを見下ろす。
「ミッチーが犬飼ってるってリョーちんが言ってた。って花道が言ってたけど、これ?」
同時に、それを抱いている子供も見下ろすことになって、水戸は首を傾げた。
「……えーと?」
どうなってんの、って顔をして、今度は俺を見上げる。
勿論目を合わせてはいられなくて、俺は顔を背けた。
「捨て犬じゃなくて迷い犬だったから返したんだよ」
吐き捨てるような口ぶりに自分でも驚いた。
まぁ、好きな奴の名前つけたからって、一日しか飼ってないし、一日中一緒にいたわけじゃないし、
無愛想だし、可愛げねぇし。
別にいなくなったって、構わない。
「そんなにかわいがってたんだ」
「はぁ?」
何故か水戸がそんなことを言ったので、思わずまじまじと見つめてしまった。
何を言ってるんだ?
一昨日までいなかったんだぜ、ヨウヘイは。
いくら、好きな奴の名前つけたからって、一日だけでそんなに情が移るかよ。
ちっせぇから心配してただけで、病気だったら面倒だからってだけで、別にかわいがってなんかない。
「寂しいって顔に書いてあるよ」
水戸がポケットに手を入れたまま肩をすくめる。
何言ってんだ。
寂しくなんかねぇよ。
ただ、ヨウヘイに、縁がないだけだ。
そんなことは百も承知だから、寂しくなんかねぇんだよ。





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更に続きます。おかしいな…もう終わるはずだったのに…。
リョーちんがかわいくなりすぎました。注射で書類がいるかとかはわかりません。
動物は一日でも一緒にいたら愛着がわいてしまうと思います。犬好きです。
(…なんだろうこのあとがき…)