犬1-2




傍観していた母親が、俯いてしまった俺に声をかけてきた。
「……あの、三井、さん?」
書類に書いてある俺の名前を確認している。
「もう、目を離さないようにしますから、……いつでも会いに来て下さい、」
まだ俺を恐がっているようなのに、俺が顔を上げると母親はにっこり笑って、
「ヨウヘイくんに」
「っだぁ!!」
「え?」
爆弾発言をしてくれやがった。
すっかりもう、俺の中でクロになりかけてたのに、なんで!
そうか、書類!
あの書類!
犬の名前も書いたんだ!
俺がいきなり叫んだので、母親は笑顔を引きつらせてしまったが、そんなのに構っている場合じゃない。
斜め少し後ろにいる水戸を体ごと捻るように振り返った。
絶対聞こえたよな、え?って言ったもんな。
でも、え?ならまだ、望みはある。
どうにかしてごまかせ、俺!
「今、ようへいって……」
水戸が自分の名前を言うと、子供に撫でられているクロまたはヨウヘイの耳がぴくりと揺れた。
「気のせいだ、気のせい!」
それに気付かれないように大声を出す。
変じゃないよな、いつもと同じだろ?
いつも俺、こんなだよな?
いつもって、いつも、俺、どうしてたっけ?
「気のせいぃ?」
不服だって顔をして、水戸が母親の持つ書類に近付いていく。
「バッカ、何やってんだよ、ほら、もう行くぞ!」
何がバカなんだかわけもわからず、俺は水戸の手首を掴んだ。
手はまだポケットの中に入っていて、俺が歩き出すとやっとそこから出て来た。
「痛ぇよ、ミッチー、ちょっと、」
俺は黒い子犬をもう見ずに、家まで一直線の道を早足で歩いた。

どこ行く気だよ、って水戸の声で我に返って立ち止まり、掴んでいる手首と手を見た。
そこを見たのは顔が見れないからだけど、それはいつも見てる普通の人間の手じゃなかった。
「……何だこれ」
「血」
指の付け根の関節のところが真っ黒だった。
ここが暗いから真っ黒に見えるだけで、血ってことは、本当は赤いんだよな。
なんて冷静に考えてる時かよ。
俺が手首を離すと、水戸は折れるかと思ったなんてバカなことを言いながら笑った。
「……手当てしてやるよ、俺んち、そこだから」
家に連れ込もうとか考えてたわけじゃないけど、なりゆきで、そんなセリフが口から出てくる。
犬の話はもうごまかせただろう。
……ということにしておきたい。
「え、骨折を?」
へらへらしながら水戸が冗談を言ってきたので、ケリを入れた。
縁がないのはわかってるから、たまに偶然会った時ぐらい、もうちょっと一緒にいたいとか思ってもいいよな?


家の前まで来た時、明かりがついてないのを見た水戸に、親いねぇのって訊かれて
いねぇよって答えたけど、それ以上何もつっこんでこなかった。
ふーん、って、興味ないってことかよ。
俺も別に、話す気なんかねぇけど。
けど、俺のことなんかどうでもいいって言われてるみたいで、ちょっと、つらい。
俺、何女々しいこと言ってんだ?
やっぱバカだ。
どうしようもねぇな。
家に入ると水戸をソファに座らせて、救急箱を出してきた。
隣に腰掛け、堂々と水戸の手に触る。
こいつの手、結構小さいんだよなぁ。
どこからあんな力が出るんだろう。
「お前、ケンカしたんだよな?」
消毒液をぶっかけても、思った通り水戸は涼しい顔をしている。
そして、その涼しい顔には、傷ひとつなかった。
「そうだよ」
一発も食らわなかったってことか。
一発ぐらい殴られろってんだよ、生意気な。
手がこれだけ痛々しいことになってるってことは、人数相手したんだろ?
「なぁ、ミッチー」
俺は包帯を巻くのに集中していて、何も言わなかった。
冗談だって響きを含ませた言葉が続けられる。
「ひとりは寂しくない?」
なんでお前がそういうことを言うんだよ。
一瞬動きを止めたけど、何でもなかったようにまた包帯を巻く。
そんなに巻かなくてもって言われるぐらい巻いてやる。
たとえ冗談でも、お前が言うな。
寂しくねぇよ。
寂しくても、一緒にいてほしい奴は一緒にいてくれねぇんだから、寂しくねぇって言うしかねぇだろ。
「俺が犬になってあげよっか」
ひどい方の、右手の手当が済んで、差し出された左手を持ったまま、俺は目を瞬かせた。
意味が分からない。
犬って、何だよ、そんなの無理に決まってる。
「何言ってんだ、お前」
机に置いた消毒液をまた手に取り、傷に吹き付けた。
「俺の名前つけてたろ、犬に。そんなことしなくても、俺が犬になってあげるって」
そのセリフの後半がわからなさすぎて、前半は耳から耳へ抜けていってしまった。
そんなさらっと言われても、ちっとも理解できない。
犬になるって、水戸が、犬に?
そんなもんなれるわけねぇ。
手当てをしていた俺の手は、いつの間にか止まっていた。
眉根を寄せて睨むみたいに水戸を見たけど、その視線は笑顔に跳ね返された。
「そしたらあの犬がいなくなっても寂しくないだろ?」
「……意味わかんねぇ、俺は元から寂しくねぇっつってんだろが」
逃げるように俯いて、手当てに戻った。
俺のペットになるっていうのか、俺の言うこと何でも聞くっていうのかよ。
そんなことありえない。
どう見たってこいつは人間だし、もし犬になったとしても、飼い主は俺じゃない。
こいつは俺の言うことより、桜木の言うこと聞くんだからな。
「あんな顔されたら放っとけねぇよ」
優しくなった水戸の声に内心動揺した。
止めてくれ、寄りかかりたくなっちまう。

「……わかってんのかよ、俺の、犬になるってことは」
ゆっくり包帯を巻きながら、俺は呟いた。
「うん」
聞こえなくてもよかったから小さい声で言ったのに、水戸の耳には届いていた。
もう止められない。
「俺が抱きついても大人しくしてなきゃいけねぇし」
「うん」
犬だからって大人しくしてるとは限らないけど。
「俺の帰り待ってなきゃいけねーし」
「うん」
無理だろ、お前バイトあるんだから。
それに家はどうする気だよ。
「愛想は、なくてもいいけど」
「そうなの?」
そう、でも次は絶対条件だ。
包帯の端をテープでとめて、でも、顔は上げられなかった。
「……桜木より俺のこと好きでいてくれねぇとヤダ」
今まで生きてきた中で最高で最低で最強最悪ののワガママ言ってると思う。
何でこんなことになってんだろう?
ああ、そうだ、こいつが犬になるとか言うから。
なんてバカなんだ、俺もバカだけど、こいつも、バカじゃねーかよ。
水戸、オイ、返事しろよ、バカ。
頭の中を色々ぐるぐる回ってるのに、どれも言葉にならなかった。
水戸の手に触れている指に、少し力を入れてみるぐらいしか、できなかった。
「それは、ちょっと難しいなぁ……」
気まずい沈黙を破った水戸の言葉は、予想通りのものだった。
最後のを言わなければ、他のことを言っていれば、冗談だって言えば、よかったのかもしれない。
でも、俺、桜木の次は嫌なんだ。
結局ヨウヘイには縁がなかったんだって、やっぱ。
それだけのことだから、落ち込むな。
「努力はするけど、花道とあんた比べらんねぇよ」
「……は?」
水戸が険しい顔をしているのを、マヌケ面で見つめる。
俺、振られたんだよな?
それにしては、なんか妙なセリフが聞こえたような気がする。
俺の指から力が抜けて、水戸の手はするりと逃げていった。
「は?じゃねーよ」
両手に包帯を巻いた水戸は腕を組み、困ったように唸っている。
「種類が違うからさ。友情と愛情? だから、どっちがどうって言われても……」
「ちょ、ちょっと、待て」
あの、俺、話についていけてないんですけど?
友情?愛情?
そんなもんあったのか?
「……それどっちが友情だ?」
水戸の肩をつかんで、目線を合わせて、顔を近付ける。
こんなに近くで見たの始めてかもしれないとか、今は思っている時じゃない。
息を詰める俺を目の前に、水戸は視線を外さなかった。
「……抱きついたら殴るし、帰りなんか待ってやらねぇし、愛想は、……置いといて、」
さっき俺が言ったことを繰り返してくる。
「努力するなんて言わねぇよ、愛してなかったら」
「あ、あい……!」
雷に打たれたような衝撃を受けた。
真顔でそんな恥ずかしいこと言うなんてなんて奴だ。
言わせたのは俺なんだろうけど、けどお前愛は恥ずかしすぎるぞ!
めちゃくちゃ混乱している俺を見て、水戸が堪えきれないというように吹き出した。
「顔真っ赤だよ、ミッチー」
「て、めぇのせーだろ!」

どこから冗談で、どこから本気なのか、俺にはわからない。
水戸が何考えてんのか、俺にはまだ全然わからない。
これから、今までより多く一緒にいられるようになるなら、少しずつわかるようになってくかな。
よし、俺も努力しよう。
水戸のことわかるようになって、そんで水戸が甘えられるような器のデカイ男になってやる。
女々しいのは、もうヤメだ。
もしまた犬飼っても、ヨウヘイなんて名前はつけないからな!





おわり(?)。えーとこのオチの意味は
表向き:もうヨウヘイってつけなくても洋平を普通に呼んだらいいから
裏向き:また犬と別れるの嫌だから縁のない名前は付けない
だから女々しいのはヤメと言いつつやっぱり女々しいということでした。だめじゃん!
というかここで説明してる私がだめなんだけどね……!

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